愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」
2019-08-04


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名古屋市長が軽々しく「日本国民」といっている。
彼の含意するところは「例外なくすべての日本人」であろうが、それは論理的にも事実にも合わない。
「すべての」反証として、日本人の私は、なぜ、暴力的でもなく性的な要素も一切ない、チマチョゴリを着た感情のない慎ましい少女の造形表現が、「従軍慰安婦を象徴する・それに抗議をする」という政治的象徴表現とされたのかを、ぜひ知りたい・感じたいと思うからだ。
造形表現というのはそういうものだと思う日本人は、愛知県知事・津田大介氏を含め少なくはあるまい。
ならば市長の言い分は「一部の日本人は」と言い替えるのが正しい。
そのような「部分的日本人が傷つく」事柄は日常茶飯事である。例えば、相撲・高校野球中継のおかげでラジオのレギュラー番組がなくなって傷つく日本人がいるというのと「等価」である。したがって、これらの中継をやめるべきだと言う、まことにおかしなことになってしまう。
自身の政治信条や、集票目的のために、「一部の人々が」いやだと感じる事柄を排除を平然と強いることは、ひにくにも「少女像」が象徴する政治プロパガンダと同じ理屈だと言える。
国と国との関係に緊張が高まっているとき、市民レベルにその緊張が及ばないように努力するのが自治体の首長ではないのだろうか。
テロ予告をする一部のうちのごく一部の「犯罪的日本人(京都アニメーション放火殺人容疑者と同じ)」の肩を持ったことになるまことに罪深い市長の行為だったと言えよう。
[政治]
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